第1章|心のどこかで、ずっと呼ばれていた場所。

チベット

※このシリーズは、チベット自転車旅の記憶をたどる連載です。
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🔹 前回:プロローグ|バフィンのブーツとチベットの空

【導入文】

目にしたことも、訪れたこともないのに、
どうしたわけか、ずっと心の奥に引っかかっている場所がある。

誰かの冒険談に憧れたわけでもない。
写真集を見て、その風景に感動したわけでもない。

ただ、心のどこかで「そこだ」と、なぜか確信していた。

理由をつければ、言葉にすることはできるかもしれない。
でも、本当のところは、
心の奥底から湧き上がってくるものに、
ただ、じっと耳を澄ませるしかなかった。

【本文】

それは、ネパールを旅していた、あの年のことだった。

初めて泊まった宿で知り合った欧米人から、ヒマラヤ山中をめぐるトレッキングの話を聞いた。

高校では山岳部に所属していた自分にとって、山へ向かうことは考えるまでもない自然な流れだった。

トレッキングは人気のない山道をテント泊で進むのではなく、点在する小さな村の宿をたどりながら進む。

およそ十日間の行程。その初日――
日暮れ間近にたどり着いた村の手前、
ふとトレール沿いに、小さな掘っ立て小屋のような建物が目に止まった。

土と木で粗く作られたその小屋の中をのぞくと、ヒンドゥー教の神様がまつられていた。

家庭の祭壇のようでもあり、小さな寺院のようでもあり――
どこか不思議な空気をまとっていた。

森にたたずむ小さな祠。時間に取り残されたような神聖な空間
粗末な小屋の奥に、なぜか心を引き込む空気が漂っていた。

しばらく中を覗き込むようにしていると、上半身裸、薄めのあごひげをたくわえ、
頭と下半身には着古された、でも大切に扱われていることがわかる布をまとった、
鋭い目つきの初老の男性が現れた。

その男は、言葉少なにぼくを招き入れた。

二畳ほどの小さな空間で、見ず知らずの彼と、火を囲みながら、ぼくは一夜を明かすことになった。

小さな火を囲んで、言葉もなく時が流れていった。

裏手に流れる急な川のゴゴゴーという音。
ぱちぱちと薪が燃える音と煙。
お香から立ち上る煙と香り。

それらが狭い空間に充満し、異様な空気を生み出していた。

その世俗を捨てたような姿の彼が、言葉を発すことはほとんどなかった。
横になったり、ヨーガのポーズをしているだけだった。

ここにいる理由も、どこから来たのかも何も語らない。
聞けば声がくずれてしまう気がして、ぼくも何も言わなかった。

ただ、人以外の動きだけが静かに流れている。

いつしか目の前にいる彼にとらわれ、心を引かれ、
そして、やがて夜が更けていった。

トレッキングから戻っても、あの夜の光景が、ずっと胸の奥に残っていた。

あの男は、いったい何者だったのか。
気になって、少しずつ調べはじめると、彼が「サドゥ」と呼ばれる存在だとわかった。

世俗を捨て、ヒンドゥー教の神々、
とりわけ青い身体を持つシヴァ神を信仰して生きる人たち。

シヴァ神はカイラス山の頂に住み、瞑想しているとされている。
とくに冬は、誰ひとり近づけぬその頂で、永遠の静寂とともに在ると信じられている。

儀式用の器で燃え上がる祈りの炎。静けさの中に宿る力強さ
あの夜、漂っていたすべての気配が、「カイラス」という響きとつながっていた。

カイラス――

その山の名前だけが、不思議に心に引っかかった。

火の光、川の音、香の煙――
あの夜を包んでいたすべてが、
いつの間にか、「カイラス」という響きとともに、心に根を張っていた。

🔹 次回:第2章|あの夜の光を追いかけて

写真提供
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