すべてのピースは、違っていていい──調和という作品をめざして

色とりどりのガラス片で構成された、教会の壮麗な円形ステンドグラス。中央には聖母子が描かれ、周囲を聖人たちが取り囲むように配置されている。 日常の気づき

町会の会議に参加してきた。
特別なことがあったわけではないけれど、こうした役割が自分のもとに巡ってくる年齢になったんだなと、ふと思った。

町会の役なんて、正直にいえばちょっと面倒くさい。
日常の時間を取られるし、誰かがやらなきゃいけないことではあるけれど、
どうしても「損か得か」で考えてしまう自分がいる。

そう思ったときに、少しイヤな気持ちになる。
「そうじゃない在り方がしたいな」と、心のどこかで静かに思った。

そんな気持ちから、ある考えが浮かんできた。

人って、ほんとうに十人十色だよなと。
顔も違えば、声も違う。才能だって、得意なことだって、人それぞれ。

でもそれって、自分が選んだものなんだろうか?

ぼくはそうじゃないと思う。
むしろ、くじ引きみたいなものじゃないかと感じている。
自分の意思ではどうにもならない、先天的なギフトのようなもの。
神様が与えてくれた何か。

でも、そのギフトの受け取り方は、人によってまったく違う。
ある人はそれを誇りに思い、ある人は悩みの種にする。

だけど、本当はポジティブとかネガティブなんてものは存在しなくて、
それをどう見るかは、ただ“その人の捉え方”なのかもしれない。

そういえばBASHARが言ってたな。
「出来事に意味を与えているのは、あなた自身だ」って。

そして、こうも思う。
人は他者との関係性の中でしか、自分を存在させることができないのかもしれない。
ひとりでは、自分というピースの形も色もわからない。

ぼくが思うのは、
もし人間という存在をひとつのステンドグラスのような作品だとするなら、
私たちはその一片、一つひとつのガラスの破片なんじゃないかということ。

それぞれのピースは違う形をしていて、違う色を持っていて、
でもそれが集まってはじめて“全体”が見えてくる。

でも今の世の中は、違いを尊重するよりも、
どこかで「同じ形に揃えよう」としているように感じる。
正しさを押しつけたり、他人と比べたり、批判したり。

それって、本来の完成図を壊してしまう行為じゃないかな。
ピースが同じ形ばかりだったら、ステンドグラスはできあがらない。

ぼくの言う作品っていうのは、
“人と人との調和”のこと。

個性がそのまま受け入れられ、
違いが活かされて、
そこにあたたかい光が差し込むような世界。

SMAPの「世界に一つだけの花」じゃないけれど、
誰かと同じになる必要なんて本当はないんだよね。

お互いの違いを尊重し、すべてを否定しないこと。
それがきっと、愛なんだと思う。

John Lennonの『Imagine』のように、
国も肌の色も信仰も関係なく、
ただそこに人がいるだけで、
お互いに敬意を持ち合える。

そんな世界を、ぼくは心から願っている。

だから、町会の役割も、
ただの面倒な義務としてじゃなくて、
その“ひとつのピース”として、
静かに受け取ってみたいと思ったんだ。

役割はめぐってくる。
だからこそ、静かに、誇りをもって受け取ってみる。

世界という作品の、ひとつのかけらとして。

(おわり)


写真提供:Nick Fewings (Unsplash)

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