第3章|四国一周への衝動|チベットの旅

荷物を積んだ自転車が、木々に囲まれた静かな森の道に一台だけ佇んでいる。 チベット

※このシリーズは、チベット自転車旅の記憶をたどる連載です。
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🔹 前回:第2章|あの夜の光を追いかけて

静かに沈んでいた心の底から、
ふつふつと湧き上がってくるものがあった。

このままじゃ、だめだ。
何かを変えなければならない。
なにか大事なものが、取り返しのつかないかたちで終わってしまう気がした。

ぼくは、衝動のままに、もう一度、動きはじめた。

 


 

このままではいけない。
そんな思いに突き動かされるように、ぼくは動き出した。

止まっていては、なにか大切なものが、取り返しのつかないかたちで終わってしまう。
それは理屈ではなく、もっと切実な感覚だった。

とにかく動かなければならない。
考えれば考えるほど、思考の渦に飲み込まれてしまう。
考える前に、走る。
余計なことを挟む隙間すら与えず、ただ前へ進むんだ。

 

ふと頭に浮かんだのは、高校時代の記憶だった。

森の中の細道を走るマウンテンバイクの男性。落ち葉が散る静かな林道
土の匂い、風を切る音。それがすべてだった。

まだ見ぬ景色を求めて、友人たちとマウンテンバイクで野山を駆け回った日々。
授業が終わると、制服のまま自転車にまたがり、夕暮れの町を抜けた。
休日には、地図も持たずに朝から走り出し、知らない山道に迷い込んだ。

乾いた土の匂い、枝葉をすり抜ける風、身体中に響く心臓の鼓動。
どこまで行っても道は続いているような気がして、ぼくらはただ夢中で走った。

あの頃、自転車という乗り物は、単なる道具ではなかった。
それは旅そのものであり、自由そのものだった。

 

そうだ。
もう一度、自転車に乗ろう。
走り出さなければならない。

どこへ行くかは、すぐに決まった。
なぜだか分からないけれど、四国だった。
ぐるりと一周──それだけでいい。

八十八か所巡りの札所を一つひとつ回るのではなく、
ただ、自分の力だけで四国をひとまわりするだけ。

それが、どうしようもなく閉じてしまった自分を、
どこかへ連れ出してくれる気がしてならなかった。

 

ぼくは、自転車に荷物を括り付け、地図を手に取り、
ほとんど迷いもなく、家を飛び出した。

高原の草原に張られたテントと、そばに立つ旅装備の自転車。遠景には雪山がそびえる
地図と少しの荷物。そして衝動だけが背中を押していた

朝の空気は少し冷たく、手の甲にしんとした感触を残した。
まだ誰も起きていない町を、タイヤが静かに転がりはじめる。

胸の奥に、わずかな不安がちらつく。
けれど、ペダルを踏み込むたび、それは遠ざかっていった。

 

もう考える必要はない。
行くだけだ。
自分の力だけで、あの円を描きに行く。

走り出したぼくは、迷うことなくペダルを踏み続けた。

あのときは、何かを考える余裕もなかった。

休むことも、寄り道することも、ほとんどなかった。
観光地にも興味は向かなかった。

ただ、自分の手で円を描ききること──
それだけが、ぼくにとって意味を持っていた。

それができたら、何かが変わるかもしれない。
そんな、かすかな予感だけを胸に抱いて。

 

四国を走りきったとき、ぼくははっきりと感じた。

海沿いをゆるやかに曲がる道路と、緑豊かな山々が続く静かな風景
静かな海を眺めながら、心の中にも小さな波が生まれていた

小さなものかもしれない。
けれど確かに、自分の中で何かが動き出していた。

ぼくは、自分で自分を少しだけ取り戻した。

 

そして、かすかに見えた復活の兆しに導かれるように、次の場所を目指した。

 

オーストラリアだった。

🔹 次回:第4章|オーストラリア編|チベットの旅

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