※このシリーズは、チベット自転車旅の記憶をたどる連載です。
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🔹 前回:第2章|あの夜の光を追いかけて
静かに沈んでいた心の底から、
ふつふつと湧き上がってくるものがあった。
このままじゃ、だめだ。
何かを変えなければならない。
なにか大事なものが、取り返しのつかないかたちで終わってしまう気がした。
ぼくは、衝動のままに、もう一度、動きはじめた。
このままではいけない。
そんな思いに突き動かされるように、ぼくは動き出した。
止まっていては、なにか大切なものが、取り返しのつかないかたちで終わってしまう。
それは理屈ではなく、もっと切実な感覚だった。
とにかく動かなければならない。
考えれば考えるほど、思考の渦に飲み込まれてしまう。
考える前に、走る。
余計なことを挟む隙間すら与えず、ただ前へ進むんだ。
ふと頭に浮かんだのは、高校時代の記憶だった。

まだ見ぬ景色を求めて、友人たちとマウンテンバイクで野山を駆け回った日々。
授業が終わると、制服のまま自転車にまたがり、夕暮れの町を抜けた。
休日には、地図も持たずに朝から走り出し、知らない山道に迷い込んだ。
乾いた土の匂い、枝葉をすり抜ける風、身体中に響く心臓の鼓動。
どこまで行っても道は続いているような気がして、ぼくらはただ夢中で走った。
あの頃、自転車という乗り物は、単なる道具ではなかった。
それは旅そのものであり、自由そのものだった。
そうだ。
もう一度、自転車に乗ろう。
走り出さなければならない。
どこへ行くかは、すぐに決まった。
なぜだか分からないけれど、四国だった。
ぐるりと一周──それだけでいい。
八十八か所巡りの札所を一つひとつ回るのではなく、
ただ、自分の力だけで四国をひとまわりするだけ。
それが、どうしようもなく閉じてしまった自分を、
どこかへ連れ出してくれる気がしてならなかった。
ぼくは、自転車に荷物を括り付け、地図を手に取り、
ほとんど迷いもなく、家を飛び出した。

朝の空気は少し冷たく、手の甲にしんとした感触を残した。
まだ誰も起きていない町を、タイヤが静かに転がりはじめる。
胸の奥に、わずかな不安がちらつく。
けれど、ペダルを踏み込むたび、それは遠ざかっていった。
もう考える必要はない。
行くだけだ。
自分の力だけで、あの円を描きに行く。
走り出したぼくは、迷うことなくペダルを踏み続けた。
あのときは、何かを考える余裕もなかった。
休むことも、寄り道することも、ほとんどなかった。
観光地にも興味は向かなかった。
ただ、自分の手で円を描ききること──
それだけが、ぼくにとって意味を持っていた。
それができたら、何かが変わるかもしれない。
そんな、かすかな予感だけを胸に抱いて。
四国を走りきったとき、ぼくははっきりと感じた。

小さなものかもしれない。
けれど確かに、自分の中で何かが動き出していた。
ぼくは、自分で自分を少しだけ取り戻した。
そして、かすかに見えた復活の兆しに導かれるように、次の場所を目指した。
オーストラリアだった。
🔹 次回:第4章|オーストラリア編|チベットの旅
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