この記事は、シリーズ「カシミール・ダル湖とハウスボートの旅」の第2話です。
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🔹 前回:第1話|記憶の奥にあった静けさ
湖に浮かぶ宿──
その響きに導かれるように、ぼくはダル湖へとやってきた。
想像していたよりも、その場所は、もっと静かで、もっとやわらかい時間が流れていた。
飛行機がカシミールの空港に降り立つと、迎えに来ていた彼とともにタクシーで町へ向かった。
到着したのは、思っていた以上に賑やかな町だった。車が行き交い、人も多く、クラクションや呼び込みの声がそこかしこに響いていた。
たしかに兵士の姿も見かけたが、それ以上に感じたのは日常の喧騒だった。
まるで、どこかの観光地のようでもあり、肩に力が入っていた自分が少し拍子抜けするほどだった。
けれど、そこからシカール(小舟)に乗って湖岸を離れ、湖へと出ると、空気が一変した。
陸を離れた瞬間、まるで水面に吸い込まれるように、音が消えた。
ざわめきも喧騒も遠のいて、ただ水のゆらぎと、オールが水をかく音だけが耳に残った。
やがてたどり着いたハウスボートも、まるでその静けさに包まれていた。

ハウスボートの起源と風景
ちなみに、このハウスボートという文化には、こんな背景がある。
19世紀、カシミールを訪れたイギリス人たちは、当時の藩王が外国人に土地の所有を認めていなかったため、水上に滞在できる住まいを造り始めた。
それが、現在のハウスボートの起源とされている。
湖に浮かぶその家は、町の騒がしさから隔てられた、別世界のようだった。
ボートには、彼の両親も暮らしていた。
ハウスボートは、まるで湖に浮かぶ屋敷のようだった。
長く伸びた木造の船体には精緻な彫刻が施され、日当たりのよいデッキには布張りのソファが置かれ、そのままくつろげる小さなテラスのようになっていた。
中に入ると、木のぬくもりに包まれた空間が広がっていた。
古いつくりではあったが、どこかに豪華さと品のある空気が漂っていた。
天井には装飾が施され、壁や家具にはどこか歴史を感じさせる落ち着きがあり、床には赤い絨毯が敷き詰められている。
いくつかの部屋に仕切られていて、居間、寝室、食堂と、まるでクラシックな洋館のような趣だった。

ぼくはその一室に荷物を置き、カーテンの隙間から湖を見た。
水面が風に揺れ、太陽が反射して、きらきらと光っていた。
水の音がわずかに聞こえ、揺れる感触が心地よかった。
どこか、夢のようだった。
でも、その空気は確かに、肌に触れていた。
食卓で交わされたやさしい時間
食事は、彼の母が手づくりしてくれていた。
丸い金属製のプレートには、インドのターリーのように数種類のおかずが並び、そこに無糖のヨーグルトが添えられていた。
最初はそのヨーグルトをどう食べればいいのかわからず、よけていた。
するとお父さんが笑って、こう言った。
「It makes more mild!(もっとまろやかになるぞ!)」
その言葉どおり、お父さんはすべてのおかずとヨーグルトを、手でよく混ぜながら食べていた。
酸味のあるヨーグルトは、スパイスの効いた料理を、どこかやわらかく包んでくれた。
気がつけば、毎回の食事にそれを混ぜて食べるのが、楽しみになっていた。
食後には、クセになるいい香りのカシミールティが出された。
シナモンやカルダモン、クローブなどの香辛料を茶葉とともに煮出した、甘くて芳しいお茶で、ミルクは使われていなかった。
ひと口飲むと、まさにヒマラヤに囲まれたこの高地にぴったりの香りを、ボートのテラスに出て景色を堪能しながら飲んだ。
毎回、格別な味がした。
湖とともに暮らす、“自由”の記憶
お父さんは、かつてここにヒッピーたちが長く滞在していたことを話してくれた。
「昔は何ヶ月も泊まっていたよ」と、お父さんは懐かしそうに笑った。
1960〜70年代、ダル湖のハウスボートは、世界中のヒッピーたちの聖地のひとつだった。
湖に浮かぶ静けさと孤立性は、「内なる平和」を求める彼らにとって理想的な空間であり、早朝に湖を眺めながら瞑想したり、アートや音楽、詩作に没頭したりしていたという。 <br>
ぼくはそんな話を聞きながら、ヒッピーたちが「自由」を社会の外に求めていたことを思い出していた。
それは、縛られない生き方と、内なる真実への旅だった。
そんな彼らの姿に、いつからか自分もどこかで憧れを抱いていたのだと思う。
部屋の中を見渡すと、古びた棚や、手すりの装飾、カーテン越しに滲むやわらかな光──
そのどれもが、たしかに時間を吸い込んでいるように感じられた。
🔹 次回:第3話 | 水とともに暮らす、名もなき日々の美しさ
この旅の記憶は、まだ湖の奥へと続いていきます。
写真提供:
・Isa Macouzet (Unsplash)
・Zeeshan Ali (Unsplash)
・Syed Qaarif Andrabi (pexels)
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