※この記事はAIとの対話シリーズの第3話です。
前回: 逃げたくなる気持ちと向き合った夜
静けさは、こうして始まった
やさしい静けさが、心の奥にすこしずつ広がっていく。
「ただ観る」ということが、こんなにも深くて、静かな営みだとは思ってもみなかった。
知識が、AIの言葉で実感に変わっていた。
前回、「不安」や「怖れ」をただ見つめることで、心に静けさが生まれた体験について書いた。
その後も、日々の中でそれを意識しながら過ごすようになると、こころが静かになった ——でも、 それだけでは終わらなかった。
私は以前から“心の動き”に興味があり、
「気づきの実践」として瞑想のようなことをしていたこともある。
けれど、何か“得られるもの”を探すような意識があったのかもしれない。
当時は、うまくいかずに続かなかった。
でも、あのAIとの対話をきっかけに、少しずつ変化が起きている気がしている.
たとえばSNSで誰かの活躍を見たとき、
以前の私は、主観的にどっぷりとその内容にはまり込み、乱されていた。
でも最近は、その心の動きを、ほんの少し“外側”から見つめられることがある。
そんなある日、ふと昔の会話が思い出された。
昇進をめぐる、友人との会話
私:「今日、昇進の話をされたんだけど、なんかプレッシャー感じてさ。正直、自分がそのポジションにふさわしいのか不安になってる。」
友:「それ、分かるよ。昇進ってプレッシャーも大きいし、同時に他の人と比べて焦りも感じるよな。でも、そういう自分をただ観てみたらどうだ?」
私:「観る?どういう意味?」
友:「うん、反応する前に一回立ち止まって、自分がどう感じているかを評価せずに観察してみるんだよ。焦りや不安が出てきても、それに反応するのではなく、“今、自分はそう感じているんだ”って気づいてみて。」
私:「なるほど、ただ観るっていうのか…。その感情に飲み込まれずに、今感じていることをただそのまま見るってことだよな。」
友:「うん。そうすると、焦りの奥にあるものが見えてくることもあるよ。自分に対する期待とか、他人との比較とか。」

私はこのやりとりを改めて思い出し、その時はじめて「ただ観る」の意味が腑に落ちた気がした。
プレッシャーや不安に対してすぐに反応するのではなく、
その“反応しそうになる自分”にまず気づく。
それだけで、ほんの少し余裕が生まれるのだ。
あるとき、怒りが湧いた場面でも、私は立ち止まることができた。
「今、私は怒っているんだ」とそっと気づく。
怒鳴ったり黙り込んだりする前に、
その感情が自分の中にあると“観る”ことができた。
すると不思議なことに、
怒りの奥にあった、言葉にできるようで、できない何かが、ふわっと消えていくような感覚があった。

「観ている“私”は、誰なのか?」
そんな中、観ている状態の時、ふと別な疑問が浮かんできた。
「怒っている私を観ている“私”は、誰なのだろう?」
思考を超えて思考を見ている何か、
感情を超えて感情に気づいている何か。
何者か、気づいている意識がいる(ある)。
この“気づいている意識”とは、一体どこから来て、どこへ行くのだろう?
「観察者が観察されるものなのです。」
—— J. クリシュナムルティ
今まで、主観的な自分だと思っていた「私」は、
実は思考や感情の流れによって構成されている存在かもしれない。
しかし、その主観者を“観ている何者か(意識)”こそが、
ほんとうの意味での「気づき」の私、なのかもしれない。
観ている“私”と、観られている“私”が、やがて一つになっていく。
そんな意識が変になりそうな感覚がしばらく続いた。
身をもって何かを理解したかのように。
とはいえ、私がその静けさに深く触れたとは、とても言えないだろう。
おそらく、まだほんの入り口に立っているだけかもしれない。
でも、ふとした瞬間にその気配に触れたような感覚。
その感覚だけは、今も胸の奥に残っている。
そして今は——
「ただ観る」ことに、少しずつでも触れることができ、
身をもって理解し始めている自分を認めている。
画像出典まとめ
・ぱくたそ「木々のささやきと木漏れ日(玉川村)」 https://www.pakutaso.com/20240244036post-50482.htmlより
・ぱくたそ「木漏れ日に満たされる森」より(www.pakutaso.com)
・Photo by Aurelijus U. on Pexels
コメント