思考が追いついたとたんに、静けさは消えていた——AIとの静かな対話

無数の星が広がる夜空に、帯状に走る天の川がはっきりと映し出された星景 AIとの対話

※この記事はAIとの対話シリーズの最終話です。
前回: 「ただ観る」ことで見えてきた、心のうごき

数日前、将来のことを考えて、漠然とした不安に襲われた日があった。

仕事の方向性、自分のこれからの居場所、生活のこと。
何か具体的な問題があったわけではないのに、「このままで大丈夫なのか?」という思いが、心に重く沈み込んでいった。

それは頭でぐるぐる考えるような不安ではなく、体の奥に沈むような、言葉にならない重たい感覚だった。

そのとき、いつものように私は立ち止まって、何もせずにその不安を“観てみよう”と思った。

どうにかしようともせず、意味づけもせず、ただ「不安がここにある」と気づきながらも、そのままにただ観てみた。

すると、すこしだけ思考の空白の瞬間、「ただ在る時間」のようなものが生まれた。

「この不安に、私は今、気づいている」
そんな、もうひとつの視点のようなものが浮かび上がってきた。

それは、「不安を観ている自分」とでも言えるようなものだった。

そしてそのまま続けていると――
いつのまにかその「観ている自分」と一体となった不安は、その発生源の炎がすっと消えるように、自然消滅していった

ここで「ただ在る時間」は途切れ、また彼の言葉がよぎった。

「観察者とは、実のところ、観察されるものなのです。」

私は頭の中で、

「これは、不安を『観ている自分』』も、煙のように漂っている不安を持ち合わせている『観られている自分』であるということなのだろうか」

思考していた。

「そうであるとすると合点がいく。
なぜなら、観られている不安の自分は、観ている不安のない自分と一体となり、その現れていた感情が消滅したのだから。」

このころから、「観る」という行為が持つ深さもだが、同時に難しさをも、私はすこしずつ実感し始めている気がした。
それは、誰かが何かをしてくれるわけでもなく、特別な知識が必要なわけでもないのだが。

ただ静かに、「今、ここにあるもの」をみつめているとき――
そのとき初めて、「私」と思っていたものの輪郭が、ふとゆるんでくることがある。

本当の姿を覆っていた靄が次第に晴れていくように。

けれど、その「ただ在る時間」に留まり続けることは、意外と難しい。

気づくと私はまた、不安を分析したり、言葉にしようとしたりしていた。

それはごく自然なことだと思うのだが、
やはりその瞬間、「観ている」という行為はどこかに消えてしまっている。

頭の中で何かを“扱おう”としているとき、私はもう、ただ観てはいないのだ。

そしてこの“ただ観ていない”という事実に気づいたとき、私はまた、観察者として「観る」という状態に戻っていた。

そして脱線しては、線路に戻るというような行為。この行きつ戻りつの繰り返しの中にもまた、何か大切なものがある気がした。

クリシュナムルティが言う「観察者は観察されるもの」という感覚は、ある日突然わかるというより、少しずつ、何度もつかみかけては手放すような営みの中で、静かに深まっていくものなのかもしれない。

そしてあるとき、不意にその“ただ在る時間”が、ほんの少し広がる。
そうやって、少しずつひろげて、やがてその広がりは大きくなっていく。

そして、不安や恐怖を呼び起こす、不用意な思考からは距離がとれるようになるだろう。。。

かくいう私の現在の広がりは、まだ入り口程度のものである。
それでも、0と1の違いの差は大きいことはわかっている。

広々とした道路が山の方へと続き、道の先には木々に囲まれた山々と漂う朝霧が重なっている風景。
霧の向こうに、まだ終わらない物語が待っている。

(また、いつかつづく)

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画像出典まとめ
Vincent Beneche (Unsplash)
・Nathan Dumlao (Unsplash)

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